昭和3年、長万部-東輪西(現在の東室蘭)の長輪線(現在の室蘭本線)が開通し、
多くの人々を乗せた列車が行き交っていました。
当時、特急列車はなく、急行列車と普通列車のみで、長万部駅での停車時間が
たいへん長く、急行列車で約12分、普通列車で15~20分ほどでした。
そこに着眼した初代・金谷勝次郎は、父が経営する旅館で製造した仕出し弁当を駅まで運び、
販売をはじめたのです。
駅ホームでの弁当販売は、長旅で疲れた人々にとても重宝されました。
なぜなら、当時の列車は今のように窓が密閉されておらず、自由に開閉ができ、
窓を開け、しょい箱を持った売り子に声をかければ、出来立てのおいしい弁当を食べられたからです。
駅ホームでのあまりの売れ行きに、旅館から駅まで弁当を運ぶことが
困難になってしまった勝次郎は昭和18年「長万部駅構内立売商会」を設立。
これが今の「かにめし本舗かなや」の始まりでした。
順調に弁当販売を続けていた勝次郎でしたが、戦後の食糧難を迎えると、
食材の入手がむずかしくなっていったのです。
食を提供する者の使命として、「せめてお腹をいっぱいにしてあげることはできないか」と
苦悩する日々が続きました。
そこで勝次郎は、他の地方ではどのような食生活を送っているのかを視察するために
地方出張へ出かけたのです。
その留守を預かったのは、妻の静枝でした。夫である勝次郎の帰りを待つ間、
せめてもの営業はできないものかと思案していたのです。
そんなとき、噴火湾で大量の毛がにが漁獲されたニュースを耳にしたのです。
「毛がにを塩ゆでして売ってはどうだろう」。
そう考えた静枝は、勝次郎の帰りを待たずして、「煮かに」の販売を開始したのです。
程よい塩味で茹でられた毛がには、旅行客の間からたいへん評判となり、
長万部駅を過ぎたころから、車内では黙々とかにを食べる人の姿と、
かにの匂いが漂っていたそうです。
地方出張から戻った勝次郎は、妻・静枝が考案した「煮かに」を
たいへん評価し、これをオリジナル商品として販売しようと考えました。
しかし、「煮かに」を販売できるのは、毛がにの旬である夏だけ。
1年を通して販売することは無理だったのです。
そこで、勝次郎と料理人・伊藤友一は知恵を絞り合いました。
これが「かにめし」誕生のきっかけでした。
何度も試作品を作り、そのたびに国鉄(現在のJR)関係者へ試食を願い出、
納得のいく「かにめし」づくりに没頭しました。
その様子を当時の長万部駅長は、
「かにめしに対してこんなに気を遣っているのか」と感心したそうです。
50種類以上の試作品を経てやっとの思いで完成した「かにめし」が、
現在の「駅弁かにめし」なのです。
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